「年表」鎌倉千年の歩み

鎌倉千年の歩み -段葛からのオマージュ P??-??

平安時代

1028年 万寿5年 6月 平忠常の乱。平直方、鎮定に失敗
1031年 長元4年 4月 源頼信が忠常の乱を鎮定。子の頼義が平直方の女婿となり、鎌倉の地を譲られる。
1051年 永承6年 前九年の役始まる
1062年 康平5年 9月 頼義が子の義家とともに前九年の役を鎮定
1063年 康平6年 8月 頼義が石清水八幡宮を鎌倉・由比郷に勧請、社殿を創建
1081年 永保元年 2月 源義家が由比郷の八幡宮を修理
1083年 永保3年 9月 後三年の役始まる
1156年 保元元年 7月 保元の乱
1159年 平治元年 12月 平治の乱
1180年 治承4年 4月 以仁王の平氏追討の令旨発せられる
8月 源頼朝挙兵
10月 頼朝が由比郷の「鶴岡宮」(鶴岡八幡宮)を小林郷の北山(現、若宮の辺り)に移す
12月 頼朝、大倉郷の大倉御所(現、鎌倉市二階堂、西御門、雪ノ下3丁目一帯)へ移る
平重衛、東大寺・興福寺を焼く
1181年 治承5年 閏2月 平清盛死去。64歳
(7月14日に養和元年) 7月 頼朝、鶴岡若宮の造営を新たに始める。8月に遷宮
養和元年 12月 鶴岡若宮に鳥居を建立。浜の大鳥居と思われる
1182年 養和2年 3月 頼朝、社頭より由比の浦に至るまでの参道(若宮
大路・段葛)を造営
1184年 寿永3年 1月 木曽義仲敗死
頼朝に、平氏追討の宣旨
2月 一の谷の合戦
4月 平重衛、鎌倉に連行

鎌倉時代

1185年 元暦2年 2月 屋島の合戦
(8月14日に文治元年) 3月 壇ノ浦の合戦
5月 平宗盛父子、鎌倉に連行。「吾妻鏡」における「若宮大路」の名称の初見
11月 行家、義経追討の院宣下る
1186年 文治2年 4月 静が鶴岡八幡宮で舞を披露
8月 頼朝が鶴岡八幡宮の鳥居の辺りで西行に出会う
1187年 文治3年 8月 鶴岡八幡宮で初めて放生会と流鏑馬が行われる
1189年 文治5年 閏4月 藤原泰衡が、義経を討つ
7月 頼朝が奥州合戦に向けて鎌倉を出発
1191年 建久2年 3月 小町大路より出火、若宮社殿・廻廊・経所が焼失
11月 鶴岡八幡宮・若宮・末社の遷宮
1192年 建久3年 7月 頼朝が征夷大将軍となる
1199年 建久10年 1月 頼朝死去。53歳
1200年 正治2年 1月 梶原景時討たれる
1202年 建仁2年 7月 源頼家、将軍となる
1203年 建仁3年 9月 比企一族滅亡
源実朝、将軍となる
1204年 元久元年 7月 頼家、伊豆で殺される。23歳
1205年 元久2年 6月 畠山重忠討たれる
1213年 建暦3年 5月 和田合戦
1215年 健保3年 8月 暴風により、浜の大鳥居倒壊。10月に再興
1219年 健保7年 1月 源実朝、公暁に暗殺される。28歳
(4月12日に承久元年) 7月 三寅(のちの将軍・藤原頼経、当時2歳)が京都から鎌倉に到着
12月 大倉御所が焼失。以降、再建されず
1221年 承久3年 5月 承久の乱。幕府が上洛
1224年 貞応3年 6月 北条義時死去。泰時、執権となる
1225年 嘉禄元年 7月 北条政子死去。69歳
12月 幕府御所を宇津宮辻子へ移転
1226年 嘉禄2年 1月 頼経、将軍となる
1227年 嘉禄3年 3月 大地震で諸所の門の扉や築地が倒れる
1232年 貞永元年 閏9月 春日社記録の「中臣祐定記」に「壇カツラヲタタミ、壁石ヲ立」とある
1236年 嘉禎2年 8月 将軍・頼経が若宮大路の新造御所へ移る
1241年 仁治2年 4月 大地震の津波のため、由比浦大鳥居内の拝殿流される
1242年 仁治3年 6月 執権・北条泰時死去。経時、執権となる
1244年 寛元2年 4月 藤原頼嗣が将軍となる
1245年 寛元3年 1月 鳥居3基とも転倒
10月 浜の大鳥居再建
1246年 寛元4年 3月 北条時頼、執権となる
1247年 宝治元年 6月 宝治合戦。三浦一族滅亡
7月 若宮大路御所を他の場所に移すための審議が行なわれる
10月 若宮大路御所移転に対して強い反対があったため移転しないことが決まる
1252年 建長4年 4月 宗尊親王、将軍となる
11月 宗尊親王、若宮大路御所内の新造御所に移る
1253年 建長5年 8月 放生会。将軍は「西門を出御、若宮大路を北に行き赤橋の砌(みぎり)に至りて御下車」
1257年 正嘉元年 8月 地震。中の下馬橋付近が地割れ
1266年 文永3年 7月 将軍・宗尊親王、京都に帰される
1268年 文永5年 3月 北条時宗、執権となる
1274年 文永11年 10月 蒙古襲来(文永の役)
1280年 弘安3年 11月 上宮、末社、楼門以下焼失
1281年 弘安4年 閏7月 弘安の役
11月 前年焼失した神殿を復興し、御正体を遷宮
1296年 永仁4年 2月 上下宮以下焼失。12月、再建、遷宮
1313年 正和2年 この前後に、吉田兼好、鎌倉に二度滞在
1315年 正和4年 3月 若宮・別当坊以下焼失
1316年 正和5年 11月 上下宮等正遷宮
1333年 元弘3年 5月 鎌倉幕府滅亡

室町時代

1335年 建武2年 8月 足利尊氏が武蔵佐々目郷の領家職を鶴岡八幡宮に寄進
1336年 建武3、延元元年 11月 尊氏「建武式目」を定める。室町幕府成立
12月 南北朝分立
1352年 観応3、正平7年 9月 若宮小路(若宮大路)3か所の橋および社頭築地修固
1358年 延文3、正平13年 4月 浜大鳥居上棟
1392年 明徳3、元中9年 閏10月 南北朝合一
1393年 明徳4年 畠山重保供養塔とされる宝?印塔建立
1413年 応永20年 3月 足利持氏が大鳥居建立。奉行は上杉禅秀
1438年 永享10年 8月 鎌倉公方・足利持氏、六代将軍・義教と対立。永享の乱
1455年 享徳4年 6月 足利成氏、古河へ移り、古河公方と呼ばれる
1467年 応仁元年 5月 応仁の乱起こる。戦国時代に入る
1477年 文明9年 11月 応仁の乱一応終わる
1495年 明応4年 8月 地震による津波、千度壇(段葛)に至る
1497年 明応6年 このころ、「善宝寺寺地図」作成される
1512年 永正9年 8月 北条早雲、三浦義同(道寸)を住吉城に追い、八幡宮に参拝
1516年 永正13年 7月 新井城、早雲によって落ちる
1526年 大永6年 11月 里見実尭の軍勢により上下宮以下焼失
1540年 天文9年 11月 北条氏綱が上下宮ほか諸堂を再建
1542年 天文11年 4月 由比ヶ浜に大鳥居造立、落慶
1552年 天文21年 4月 北条氏康が由比ヶ浜大鳥居再建
1561年 永禄4年 閏3月 上杉謙信、鶴岡八幡宮参拝
1570年 永禄13年 3月 北条氏政、東慶寺量を安堵

安土桃山時代

1573年 元亀4年 4月 織田信長、足利義昭を追放。室町時代終わる
1590年 天正18年 7月 豊臣秀吉、後北条氏を滅ぼす。鶴岡八幡宮に立ち寄る
1591年 天正19年 5月 豊臣秀吉、鶴岡八幡宮修営目論見図を作らせる
1597年 慶長2年 9月 徳川家康、光明寺を浄土宗関東十八檀林の首座とする
1600年 慶長5年 6月 徳川家康、上杉征伐の途中、鎌倉に立ち寄る

江戸時代

1607年 慶長12年 4月 林羅山、鎌倉に立ち寄る
1608年 慶長13年 10月 伊達正宗、荏柄天神で独吟千句を奉納
1626年 寛永3年 徳川秀忠が命じていた八幡宮の造営工事が完成。
現在の若宮社殿はこの時に建立
1633年 寛永10年 11月 沢庵 宗彭、鎌倉五山をはじめ、諸寺を巡る
1643年 寛永20年 8月 紀州徳川家の祖徳川頼宜、保養のため鎌倉に来る
1648年 慶安元年 8月 水戸藩主 徳川頼房、英勝寺墓参
1668年 寛文8年 8月 徳川家綱、「浜の大鳥居跡」碑より180メートル海岸寄りに鳥居を移し石造りにして再建
1669年 寛文9年 3月 貝原益軒、鎌倉、金沢歴観
1674年 延宝2年 5月 徳川光圀、鎌倉歴覧、鎌倉日記を述作
1703年 元禄16年 11月 南関東大地震。3基の鳥居崩れる
1732年 享保17年 11月 「鶴岡八幡宮境内図(享保境内図)」作成される
1733年 享保18年 7月 幕府が新鋳の大砲を鎌倉海岸で試射
1762年 宝暦12年 4月 徳川家治が鎌倉への遠馬を近侍に命じる。以降、幕末まで遠馬流行
1783年 天明3年 8月 材木座補陀洛寺が竜巻で破壊される。竜巻寺の始まり
1793年 寛政5年 4月 松平定信、鶴岡八幡宮参詣
1807年 文化4年 5月 山ノ内長寿寺で足利尊氏四百五十年遠忌法要が盛大に行われる
1821年 文政4年 1月 上宮、楼門、回廊などが焼失 段葛両側火の海に
6月 渡辺崋山、鎌倉遊覧
1828年 文政11年 8月 鶴岡八幡宮の再建が完成。現在の本宮(上宮)はこの文政の再建
1846年 弘化3年 6月 デンマーク船、鎌倉沖に出現。鎌倉来航の最初の異国船
1854年 嘉永7年 1月 異国船渡来につき、鎌倉五山で国家安全の祈祷
1859年 安政6年 6月 河井継之助、鎌倉に立ち寄る
1863年 文久3年 3月 桜田門外の変に関わった水戸藩士・広木松之助、大町上行寺で自刃
1864年 元治元年 10月 下の下馬付近で、英国軍人2人が殺される
1868年 慶応4年 3月 太政官により神仏混交が禁止される

明治時代

(9月8日に明治元年) 政府は鎌倉の社寺に貸付金の催促を禁止
1869年 明治2年 7月 鎌倉宮、創建
1870年 明治3年 6月 神仏分離のため、鶴岡八幡宮境内の諸堂塔・仏像・什器一切を破棄
1871年 明治4年 鎌倉中の寺社領ことごとく召し上げられ、神奈川県の所轄へ
5月 総裁・筥崎博尹、図書・大沢錦二が「鶴岡八幡宮境内絵図面」を作成
1872年 明治5年 一の鳥居の並木敷から旧大鳥居の根部が発見される
1873年 明治6年 2月 明治天皇、鎌倉行幸
1874年 明治7年 11月 島津久光、鎌倉墓参
1878年 明治11年 5月 二の鳥居までの段葛が官有地に編入される
1882年 明治15年 10月 筥崎博尹が八幡宮宮司に就任
1885年 明治18年 4月 南方熊楠、鶴岡八幡宮参拝
1888年 明治21年 1月 横須賀線施設工事開始(西郷従道・大山巌が内閣に要請)。翌年6月に開通。二の鳥居以南の段葛が失われる
1890年 明治23年 4月 ラフカディオハーン、鎌倉遊覧
1891年 明治24年 12月 後の鎌倉町長・大山初蔵が民間で作った鎌倉最初の実測地図(鎌倉実測図)出版。この年の鎌倉の戸数1382戸、人口7522人
1892年 明治25年 8月 島崎藤村、扇ヶ谷に仮寓
1893年 明治26年 3月 正岡子規、鎌倉遊覧。「鎌倉一見の記」残す
1894年 明治27年 12月 夏目漱石、円覚寺に参禅
1902年 明治35年 2月 国木田独歩、坂ノ下に寓居
1904年 明治37年 8月 一の鳥居が特別保護建造物(重要文化財)に指定される
1910年 明治43年 11月 横須賀線のガード建設に伴い、江ノ電が小町(のちに鎌倉と改称)まで開業。若宮大路上を線路が走る光景が出現
12月 高浜虚子、鎌倉に居を定める
1911年 明治44年 3月 皇太子(大正天皇)亀ヶ谷 香風園に立ち寄る

大正時代

1913年 大正2年 3月 国、県から段葛に桜158本の植樹が許可
1917年 大正6年 1月 段葛の鶴岡八幡宮境内地編入が許可される
1918年 大正7年 2月 芥川龍之介、大町に寓居
3月 段葛の改修竣工。積み石を積み直す
1923年 大正12年 9月 関東大震災、楼門、3基の鳥居倒壊

昭和時代

1927年 昭和2年 1月 三の鳥居を鉄骨鉄筋コンクリートで再建
11月 二の鳥居を鉄骨鉄筋コンクリートで再建
1928年 昭和3年 横溝正史、大町に寓居
1935年 昭和10年 6月 若宮大路、当時松並木敷きとなっていた部分のみが国史跡に指定
1936年 昭和11年 8月 一の鳥居改修工事竣工
1949年 昭和24年 3月 江ノ電、鎌倉駅西口を発着駅とし、若宮大路側の駅を廃止
1957年 昭和32年 2月 鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)、重要文化財に指定替え
1961年 昭和36年 6月 段葛の土手の両側に玉石を築く第1期改修工事(赤橋から約140メートル)が完成
1966年 昭和41年 1月 古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)公布
1967年 昭和42年 4月 鶴岡八幡宮境内(段葛を含む)が国史跡に指定
1973年 昭和48年 10月 若宮大路が「日本の桜名所100」に選ばれる
1986年 昭和61年 8月 若宮大路が日本の道100選に選定

平成時代

1993年 平成5年 10月 建設大臣から、若宮大路と周辺地区が「都市景観大賞」受賞
2004年 平成16年 4月 「日本の桜名所100 若宮大路」の碑が大朽寺入口横に建立
2006年 平成18年 1月 若宮大路の未指定区域(歩、車道)が国史跡に追加指定。
八幡宮社前から海岸橋交差点までの若宮大路全体に指定範囲広がる
2014年 平成26年 11月 段葛全面改修工事開始
2016年 平成28年 3月 段葛全面改修工事終了